「悪人」の真実
話題の映画、「悪人」観て来ました。
とても考えさせられる映画でした。
色々な立場で、見方や捉え方ができると思います。
私は観終わってからずうっと考えていました。
ひとりの「孤独」な青年の「偶然の悲劇」である。
人は誰もが気づかぬうちに人を傷つけている。
耐え難い「孤独」の中で誰かと繋がっていたい。誰かに愛されたい・・・
希薄な人間関係、それを構築する術さえわからぬまま。
殺された佳乃の父親である佳男は、
「大切な者がいないから、自分は失うものがないのだと何でも出来る気になっている。」
と、言う。
つまり、何をやっても、罪を犯してもいいと勘違いしている。という事だろう。
また、光代は、
「大切なものが出来たから、自分は何でも出来るのだと思った。」という。
つまり、大切なもののためなら何でも出来る。罪も犯せる・・・というのだ。
同じ罪であっても、まったく違う。
苦しみもがき、やっとみつけた「孤独」の中での「愛」
それでも自分の運命と向き合わなくてはならない、現実から逃れる事はできないのだ。
私はもしかしたら、「光代」が一番の「悪人」なのではないかという気がしてならない。
彼が自首する時に、「愛」ゆえにか?それを止めさせ、「逃亡」という罪を重ねさせた。
さらには「拉致」そして「殺人未遂」(これは祐一の精一杯の愛だろうが)という罪までも。
最初の罪・・それは、衝動的犯行であり、過失致死だったかもしれない。
彼は「犯罪者」ではあったが、「悪人」ではなかったのだ。
一体誰が「悪人」だったのだろうか・・・
出会い系詐欺、暴力、悪徳商売、そして・・・殺人
すべて日常の中で当たり前に行われるような現代。
悪人の顔をしている悪人・・・自己の利益のために人を傷つけて平気な人間。
善人の顔をした悪人・・・傷つけられたと思われない、
また傷つけていることに気が付いていない人間。
光代は後者だったのではないか・・・?
ただ、そこで救われるのは「愛」があったということだ。
祐一が人生で初めて「愛された」のだから。
皮肉にも「逃亡」というギリギリの極限の状況下ではあったが。
この映画も主人公は確かに「祐一」であるが、先にも述べたとおり、
祐一は「犯罪者」ではあるが、「悪人」ではない。
もしかしたら・・・「悪人」の主人公は本当は「光代」であり、
気づかぬうちに、傷つけてしまう我々ひとりひとりなのではないだろうか・・・。
とても考えさせられる映画でした。
色々な立場で、見方や捉え方ができると思います。
私は観終わってからずうっと考えていました。
ひとりの「孤独」な青年の「偶然の悲劇」である。
人は誰もが気づかぬうちに人を傷つけている。
耐え難い「孤独」の中で誰かと繋がっていたい。誰かに愛されたい・・・
希薄な人間関係、それを構築する術さえわからぬまま。
殺された佳乃の父親である佳男は、
「大切な者がいないから、自分は失うものがないのだと何でも出来る気になっている。」
と、言う。
つまり、何をやっても、罪を犯してもいいと勘違いしている。という事だろう。
また、光代は、
「大切なものが出来たから、自分は何でも出来るのだと思った。」という。
つまり、大切なもののためなら何でも出来る。罪も犯せる・・・というのだ。
同じ罪であっても、まったく違う。
苦しみもがき、やっとみつけた「孤独」の中での「愛」
それでも自分の運命と向き合わなくてはならない、現実から逃れる事はできないのだ。
私はもしかしたら、「光代」が一番の「悪人」なのではないかという気がしてならない。
彼が自首する時に、「愛」ゆえにか?それを止めさせ、「逃亡」という罪を重ねさせた。
さらには「拉致」そして「殺人未遂」(これは祐一の精一杯の愛だろうが)という罪までも。
最初の罪・・それは、衝動的犯行であり、過失致死だったかもしれない。
彼は「犯罪者」ではあったが、「悪人」ではなかったのだ。
一体誰が「悪人」だったのだろうか・・・
出会い系詐欺、暴力、悪徳商売、そして・・・殺人
すべて日常の中で当たり前に行われるような現代。
悪人の顔をしている悪人・・・自己の利益のために人を傷つけて平気な人間。
善人の顔をした悪人・・・傷つけられたと思われない、
また傷つけていることに気が付いていない人間。
光代は後者だったのではないか・・・?
ただ、そこで救われるのは「愛」があったということだ。
祐一が人生で初めて「愛された」のだから。
皮肉にも「逃亡」というギリギリの極限の状況下ではあったが。
この映画も主人公は確かに「祐一」であるが、先にも述べたとおり、
祐一は「犯罪者」ではあるが、「悪人」ではない。
もしかしたら・・・「悪人」の主人公は本当は「光代」であり、
気づかぬうちに、傷つけてしまう我々ひとりひとりなのではないだろうか・・・。
