「区切り」・・・河野義行さんの生き方


(鉢伏山)
松本サリン事件の容疑がかかり、奥さんまで亡くした、
あの「河野義行」さんが、松本市を離れ鹿児島市に移り住み、
好きな釣りをしながら、余生を楽しむ事にしたといいます。
奥さんが元気な頃、「オルガン」で、愛していたジャズをよく弾いていたということから、
鉢伏山の山荘で、そのオルガンでの「コンサート」を開催したそうです。
奥さんの澄子さんが、2年前の8月5日に亡くなって、
これからの新たな人生の旅立ちのためにも、
「ひと区切り」としたかったとおっしゃっていました。
「亡き妻に捧げるコンサート」です。
澄子さんは、最後の最後の一瞬まで、家族や河野さんに愛されていたのだと思います。
3年ほど前に、河野さんは、あのオウム真理教の元信者の、
刑に服役していた男性が、庭師として再出発した時、
自宅の庭を、あえて、その彼に依頼した事がありました。
最愛の人を奪い、自分の名誉や人生を大きく変えてしまった、
あの事件の教団の元信者に対して、恨みや憎しみは、もはやなかったのでしょうか・・・。
ふたりの対話は雑誌に掲載されていました。
詳しくは憶えていませんが、河野さんが
「あなたも犠牲者です。」
という内容の事を話していたように思います。
確か、罪を償って、それで終わりではなく、
既に風化されそうなあの事件を、加害者と被害者という立場で、
しっかり話しをしたかったのだと思います。
このまま加害者の教団と、何も交わることなく生活していく、
そういう選択はできたはずです。
できればもう忘れたい・・。
波風たてずに静かに生活していく。そういうこともできたはずです。
ひっそりと終止符を打つ事は、
きっと容易い。
でも・・・河野さんは、ここでも「区切り」というものをつけたのです。
そうする事で、次のステージに進んでいけると思ったのではないでしょうか。
河野さんの人生の中で、あの事件についての想いは、
永い時間とともに昇華されていったのかもしれません。
決して忘れて欲しくはないという想いと、自分が経験した苦しみや哀しみを、そのままにしたくないからこそ
自分の立場でできる事を、ずうっとやって来られたのではないでしょうか。
だからこそ、「区切り」をつけずにはいられなかった。
ひとつづつ、ひとつづつ、きちんと「区切り」をつけながら生きていく・・・
その「区切り」たちを、ひとつづ「封印」しながら、再出発を果たそうとして行ったのではないのでしょうか・・・
そうする事が、河野さんの人生であり、澄子さんへの愛だったのかもしれません。
河野さんは言います。
「生きている事は、常にリスクを背負っている事です。」
と・・・
その言葉の重さに、何だか彼の人生を見たような気がしました。
鹿児島の地で、これから始まる新しい人生に、幸多かれと祈らずにはいられません。
2010年09月22日 Posted byさち at 21:18 │Comments(2) │随筆
この記事へのコメント
区切りの付け方、幕引きの仕方・・・・
わかっていてもなかなか難しいものです。
自分でしか区切りも幕引きも出来ません・・・
納得しなくても区切りをつける事で
そのうち納得できるのでしょうかね~~~
人と人との関係、自分自身の思い・・・
わかっていてもなかなか難しいものです。
自分でしか区切りも幕引きも出来ません・・・
納得しなくても区切りをつける事で
そのうち納得できるのでしょうかね~~~
人と人との関係、自分自身の思い・・・
Posted by オアシス at 2010年09月23日 08:49
オアシスさま
フェイドアウトもいいけど引きずる事がムダなら、区切りという手段で幕引きするのもいいと思います。
その一瞬は苦しくても、美しい思い出になります。
どちらにしても、大切なのは区切りの付け方ではなくて、「どう生きていくか」だとも思います。
フェイドアウトもいいけど引きずる事がムダなら、区切りという手段で幕引きするのもいいと思います。
その一瞬は苦しくても、美しい思い出になります。
どちらにしても、大切なのは区切りの付け方ではなくて、「どう生きていくか」だとも思います。
Posted by さち
at 2010年09月24日 12:08
