神様がくれた最期の贈り物
佐久の主人の実家に行って来ました。
日増しに身体が弱っていく母に心が痛みました。
食事も軟らかいものしか、なかなか喉を通りません。
おかゆやぞうすいが主食のようです。
舌の運動がうまくいかず、噛んだ食べ物を喉にもっていくのがままならないのです。
普段私達にとって、当たり前の「食べる」という作業が、母には難しいのです。
一生懸命に噛んでいる様子をみると、「老いる」という事の哀しさを感じます。
少しづつ少しづつすべての人に平等に与えられる「老い」について考えてしまいます。
私達には、介助することは出来ても、それを治すことは出来ません。
その歯痒さが、ついつい「お母さんがんばって!」になってしまいます。
「がんばって!」は、禁句かもしれないのに・・・
「がんばって」いるのは確かなのに・・・
認知症は、現在80代で3人にひとりだといいます。
もう何十年かしたら、世の中は認知症だらけ・・・?
認知症とは、確実に近づいている「死」という現実を受け入れられずに、
自分の「過去の記憶」や、「生きる事への執着」を、少しずつ脱ぎ捨てていくための
「神様がくれた最期の贈り物」なのかと思うことがあります。
今日の夜7時半の空です。
まだまだ明るい夜です。
日増しに身体が弱っていく母に心が痛みました。
食事も軟らかいものしか、なかなか喉を通りません。
おかゆやぞうすいが主食のようです。
舌の運動がうまくいかず、噛んだ食べ物を喉にもっていくのがままならないのです。
普段私達にとって、当たり前の「食べる」という作業が、母には難しいのです。
一生懸命に噛んでいる様子をみると、「老いる」という事の哀しさを感じます。
少しづつ少しづつすべての人に平等に与えられる「老い」について考えてしまいます。
私達には、介助することは出来ても、それを治すことは出来ません。
その歯痒さが、ついつい「お母さんがんばって!」になってしまいます。
「がんばって!」は、禁句かもしれないのに・・・
「がんばって」いるのは確かなのに・・・
認知症は、現在80代で3人にひとりだといいます。
もう何十年かしたら、世の中は認知症だらけ・・・?
認知症とは、確実に近づいている「死」という現実を受け入れられずに、
自分の「過去の記憶」や、「生きる事への執着」を、少しずつ脱ぎ捨てていくための
「神様がくれた最期の贈り物」なのかと思うことがあります。
今日の夜7時半の空です。
まだまだ明るい夜です。
2010年06月22日 Posted byさち at 23:28 │Comments(1) │随筆
この記事へのコメント
「最期の贈り物」・・・
そうかもしれないと思いました。
私の祖父母ももれなく、他界する直前は認知症になっていました。
見ているほうからすると、それまでの姿とは明らかに違い切ないものがありましたが、、、
世の中のわずらわしさからは離れた所にいて、本人にすれば案外平穏だったのかな、と思いました。
こちらもゆったりと構える余裕があったらな、と反省しています。
お義母さんも、さちさんに大事にされてお幸せですよ。
そんな幸せな日が一日も多くありますように。
そうかもしれないと思いました。
私の祖父母ももれなく、他界する直前は認知症になっていました。
見ているほうからすると、それまでの姿とは明らかに違い切ないものがありましたが、、、
世の中のわずらわしさからは離れた所にいて、本人にすれば案外平穏だったのかな、と思いました。
こちらもゆったりと構える余裕があったらな、と反省しています。
お義母さんも、さちさんに大事にされてお幸せですよ。
そんな幸せな日が一日も多くありますように。
Posted by つっちぃ
at 2010年06月29日 12:39
