「悪人」の真実

さち

2010年10月01日 22:50

話題の映画、「悪人」観て来ました。


とても考えさせられる映画でした。

色々な立場で、見方や捉え方ができると思います。

私は観終わってからずうっと考えていました。


ひとりの「孤独」な青年の「偶然の悲劇」である。

人は誰もが気づかぬうちに人を傷つけている。



耐え難い「孤独」の中で誰かと繋がっていたい。誰かに愛されたい・・・

希薄な人間関係、それを構築する術さえわからぬまま。

殺された佳乃の父親である佳男は、

「大切な者がいないから、自分は失うものがないのだと何でも出来る気になっている。」

と、言う。

つまり、何をやっても、罪を犯してもいいと勘違いしている。という事だろう。


また、光代は、

「大切なものが出来たから、自分は何でも出来るのだと思った。」という。

つまり、大切なもののためなら何でも出来る。罪も犯せる・・・というのだ。

同じ罪であっても、まったく違う。


苦しみもがき、やっとみつけた「孤独」の中での「愛」

それでも自分の運命と向き合わなくてはならない、現実から逃れる事はできないのだ。


私はもしかしたら、「光代」が一番の「悪人」なのではないかという気がしてならない。

彼が自首する時に、「愛」ゆえにか?それを止めさせ、「逃亡」という罪を重ねさせた。

さらには「拉致」そして「殺人未遂」(これは祐一の精一杯の愛だろうが)という罪までも。

最初の罪・・それは、衝動的犯行であり、過失致死だったかもしれない。


彼は「犯罪者」ではあったが、「悪人」ではなかったのだ。

一体誰が「悪人」だったのだろうか・・・


出会い系詐欺、暴力、悪徳商売、そして・・・殺人

すべて日常の中で当たり前に行われるような現代。

悪人の顔をしている悪人・・・自己の利益のために人を傷つけて平気な人間。

善人の顔をした悪人・・・傷つけられたと思われない、

また傷つけていることに気が付いていない人間。


光代は後者だったのではないか・・・?


ただ、そこで救われるのは「愛」があったということだ。

祐一が人生で初めて「愛された」のだから。

皮肉にも「逃亡」というギリギリの極限の状況下ではあったが。

この映画も主人公は確かに「祐一」であるが、先にも述べたとおり、


祐一は「犯罪者」ではあるが、「悪人」ではない。

もしかしたら・・・「悪人」の主人公は本当は「光代」であり、

気づかぬうちに、傷つけてしまう我々ひとりひとりなのではないだろうか・・・。


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